荻須 高徳 Takanori Oguiss
1901年 11月30日、愛知県中島郡千代田村井堀(現在の稲沢市井堀高見
町)に生まれる。父は代々同地有数の地主をつぎ、母方も井堀に近
い海部郡津島町の地主である。
1921年 東京美術学校受験の為、川端画学校に学ぶ。
1922年 東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二教室に学ぶ。
同級生に小磯良平、山口長男、牛島憲之、中西利雄、猪熊弦一郎。
1927年 東京美術学校を卒業。
フランス留学。
1928年 この頃より署名をOGUISSとする。
サロン・ドートンヌに初入選(~’39迄続けて出品)。
1929年 サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダン展に出品(~’40迄続
けて出品)。
はじめてフランス国外へ。ベルギー・オランダを写生旅行する。
サロン・ドートンヌに出品。出品作を買ってくれたミラノの絹織物商
フランチェスコ・ロッソとの文通がはじまり、戦後のミラノでの個展
開催の機縁となる。
1930年 コルベール画廊(パリ)で初めての個展をひらく。
詩人・美術批評家のアルフォンス・セッシェと知り合い、以降セッシ
ェ家との交友を終生つづける。
スペイン旅行にでかける。
1931年 カティア・グラノフ画廊(パリ)で個展を開催。
サロン・デ・テュイルリーに招待出品(~’39迄続けて出品)。
コルシカ島に旅行し制作する。
1932年 セッシェの推薦によりドルアン画廊(パリ)で個展を開催。
ジュネーヴの宝石商リュシアン・バッサンジェーがアトリエに来訪。
作品10数点を買い求めたうえ、ジュネーブでの個展開催斡旋を約し
て帰る。
ジュネーヴのバッサンジェー家に招待され、同家に1カ月滞在して制
作をする。
バッサンジェー家は、マリー・アントワネットの「首飾り事件」で名
高い宝石商の家柄で、ドラクロワ、クールベ、ヴラマンク、ヴァン・
ドンゲンなど多数の美術品収集家としても知られている。
このとし、日本円暴落のため日本人画家の大半がパリを去り帰国する。
1933年 パリ市が新たにつくった芸術家のためのアトリエ村《モンマルトル・
オ・ザルティスト》に最初に入居する。
ノルマンディーのルーアンに1カ月滞在して制作する。
レマン湖のほとりバッサンジェー家の別荘で約2か月間、同家の人達
とともに過ごしながら制作。以後、毎年夏の2か月間ばかりをその別
荘で送るようになる。
1934年 バッサンジェーの紹介によりスイスにおける最初の個展がジュネーヴ
の市立ラット美術館にて開催される。
名優アリ・ボールの肖像画を制作。
1935年 2か月程イタリアを旅行。ミラノでフランチェスコ・ロッソを訪ね旧
交を温める。旅行中に胃潰瘍を発症。
ジュネーブで入院をし、その後3カ月程バッサンジェー邸にて療養。
1936年 サロン・デ・テュイルリーに《シテ・ドレ》を出品。フランス政府
の買上げとなる。
ナントの西、ノワールムーティエ島のアリ・ボールの別荘に滞在して
麦畠や風車のある風景を描く。
サロン・ドートンヌ会員に推挙される。
アラール画廊(パリ)にて個展。出品作の《サン・タンドレ・デ・ザ
ール広場》がフランス政府買上げとなり、前回買上げ《シテ・ドレ》
とともにリュクサンブール美術館外国人部ジュ・ド・ポーム・デ・
テュイルリーにて常時展観される。
1937年 ジュネーブのラット美術館にて2回目の個展が開催される。
パリ万国博覧会美術展に《自動車修理屋》を出品。
ブルターニュのサン・マロにて制作。
アラール画廊(パリ)にて個展。
1939年 エジプトの上院議員と駐エジプト公使の招待でエジプト旅行にでる。
カイロでパリを主題とした作品展を開催。エジプト政府が2点買上
げ、カイロ国立近代美術館のフランス現代美術部に陳列される。
アレキサンドリアで個展を開催。カイロでは多くの制作をする。
パリに戻った後、ジュネーヴに滞在中に第二次世界大戦がはじまる。
日本人であるためフランス入国を止められる。
パリに戻れた後、サロン・ドートンヌ出品作2点をパリ市が買上げ。
1940年 ドイツ軍が急速にパリに接近。マルセイユへ避難。パリ陥落後、日本
領事の要請もあり帰国を決意。
帰国後、新制作派協会に会員として迎えられる。
紀元二千六百年奉祝美術展に《モンマルトル裏》を出品、文部省買上
げ(現在、東京国立近代美術館収蔵)。
1941年 日本橋三越にて日本での最初の個展を開催。
藤田嗣治に勧められて満州国へ制作旅行へ。
太平洋戦争に突入。
1942年 ふたたび満州に制作旅行。
仏印にも旅行。
1943年 仏印・満州での風物をテーマにした個展を銀座・青樹社にて開催。
1944年 戦争激化のため新制作派協会第9回展は中止となる。
横江美代子と結婚。
1945年 太平洋戦争終結。
1946年 長女 恵美子が生まれる。
1948年 バッサンジェーやセッシェたちの助力により戦後はじめての日本人
画家としてフランス入国を許され、単身横浜を出港する。
8年ぶりにパリへ戻り、クリスマスはジュネーヴのバッサンジェー
邸で過ごす。
1949年 パリのオルドネール街の旧アトリエに戻る。
ジョアンヴィルに住む旧知のグーブノー博士のもとに1カ月滞在し、
ふたたび制作に専念しはじめる。
サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダン展に出品(~’59迄
毎年出品)。
夏、ジュネーヴにて制作。
サロン・ドートンヌに出品(~’60迄毎年出品)。
モナコ賞展で《モンマルトル小景》が大賞受賞。
1950年 妻子がパリに到着。
1951年 革新的なサロンとして戦後出発をしたサロン・ド・メに招待出品
(~’58迄毎年出品)。
ジュネーヴのラット美術館にて個展。出品作の《ジョアンヴィルの
礼拝堂》がジュネーヴ市買上げとなる。
日本大使館より松方コレクション日本返還についての相談を受け、
これに尽力する。
1952年 パリで知り合ったイギリスの貴族アームストロング卿の招待で渡英。
ニューカッスル近くのクラグサイド城や海岸のバンバラ城にしばら
く滞在し制作する。
モニック・ル・グルート画廊(パリ)で開催のベルサイユ宮殿を救済
のためのデッサン展にロルジュー、マルシャン、ミノーらとともに出
品する。
1953年 フランチェスコ・ロッソのすすめにより、グッソーニ画廊(ミラノ)
でイタリアにおける最初の個展開催。
サロン・ポピュリストに出品。フランス美術批評家協会からポピュリ
スト絵画賞を受賞。出品作≪絵具屋≫パリ市買上げ。
オランダのアルクマールとアムステルダムで制作する。
1954年 第5回毎日美術賞(特別賞)を受賞。
シエナで制作。トスカーナ地方・ローマを廻る。
日本外務省から日仏文化協定混合委員を委嘱される。
カティア・グラノフ画廊(パリ)で個展開催。出品作≪ヴィオロン・
ド・マレー≫がフランス政府買上げとなる。
1955年 グッソーニ画廊(ミラノ)で個展開催。
ジェノヴァに1か月滞在し制作。
神奈川県立近代美術館にて「荻須高徳展」が開催される。
1956年 大阪大丸に「荻須高徳展」が巡回される。
パリ市立近代美術館の「フランスと世界の画家展」に≪クリシー≫を
出品する。後年、この作品はテル・アヴィヴ美術館収蔵となる。
サルデーニャ島に1か月滞在し制作する。
ブリジストン美術館(東京)にて「荻須高徳展」が開催される。
フランス政府からシュバリエ・ド・レジオン・ドヌール勲章を授与さ
れる。
冬のヴェネツィアを描きに、年をまたいで1か月以上滞在する。
1957年 ヴェネツィアに滞在、制作。
サン・ドニ市立美術館に≪本屋≫≪サン・ドニの城塞≫≪テアトル広
場≫が収蔵される。
パリのサロン・コンパレゾンに出品(以後毎年出品)。
カティア・グラノフ画廊(パリ)でヴェネツィアをテーマに個展開催。
出品作の≪カナレヂオ≫をフランス政府が買上げ。
この年、よき理解者の一人であったフランチェスコ・ロッソが死去。
1958年 グッソーニ画廊(ミラノ)で個展を開催。
シャトー・ド・ソー(イル・ド・フランス美術館)が≪サン・ドニ伽
藍≫≪ナントゥイエ≫≪セザールの塔≫≪サンリスのサン・ピエール
寺院≫を買上げる
1959年 松方コレクションの公式引き渡しに、日仏文化協定委員として立ち会
い、全作品を点検する。
アルザス地方を制作旅行する。
サロン・ド・タベルニーに≪玉突屋≫を出品し受賞する。
ガリエラ美術館(パリ)で開催の「100人の画家の描く石油展」に≪
ガソリン・スタンド≫を出品、終了後シェル石油本社の収蔵となる。
1960年 ラット美術館(ジュネーヴ)で「荻須高徳展」を開催。
ヴェネツィアの南キオッジアに滞在、制作する。
1961年 サロン・デ・トロワ・エスにて大賞を受賞。
カティア・グラノフ画廊(パリ)で個展開催。出品作≪店≫はフラン
ス政府買上げ。
1962年 ミラノのグッソーニ画廊で個展開催。
エヴルー美術館(ノルマンディー)で開催の「日本人画家展」に出品。
初めてのドイツ旅行を企て、ニュルンベルク・ミュンヘンなど南部を
まわる。
1963年 第7回日本国際美術展に≪鍵屋≫を出品。
第2階国際形象展(東京)に≪ド・モー街≫≪パリ郊外≫など3点を
出品。
1964年 荻須を最初に紹介し、良き理解者でもあった美術批評家のアルフォン
ス・セッシェが亡くなる。
ウィルデンスタイン画廊(ロンドン)の「パリの記念展」に招待出品
する。
カティア・グラノフ画廊(パリ)で個展を開催、43点を出品する。
第3回国際形象展に≪GARAGE≫≪パリ風景≫を出品する。
1965年 「荻須高徳展 -パリの造形と詩-」日本橋髙島屋にて開催。
1956年以降の作品98点を出品する。
(名古屋松坂屋・大阪大丸・福島県文化会館 巡回)
第8回日本国際美術展(東京)に≪リュ・タイランディエール≫を出
品する。
第4回国際形象展(東京)に≪雪の道≫を出品する。
ローマの日本文化会館主催の「在欧日本人展」に≪鍵屋≫を出品する。
荻須高徳画集を出版する。
愛知県文化会館美術館に≪サン・ドニ≫が収蔵される。
1966年 フランス・スペインの各都市を巡回して開催される「フランス芸術の
独立と伝統展」に出品する。
神奈川県立近代美術館(鎌倉)開催の「近代日本洋画の150年展」に
≪黄色い店≫が選ばれる。
第5回国際形象展(東京)に≪ネカール通り≫≪ポントワーズ≫≪ブ
ラントーム通り≫を出品する。
ベルギーを回り、アントウェルペン・ブリュージュ・ゲントで制作す
る。シチリア島全島を回り制作する。
1967年 第9回日本国際美術展(東京)に≪街角≫を出品する。
カティア・グラノフ画廊(パリ)で個展を開催。
第6回国際形象展(東京)に≪街角≫≪パリ郊外≫を出品する。
ムルロー工房で最初のリトグラフ制作に取り組む。
1971年 ヴェネツィアに制作旅行をする。
第10回国際形象展(東京)に≪街景≫を出品する。
神奈川県立近代美術館(鎌倉)で「荻須高徳展」が開催され、192
8年から1971年までのヨーロッパ各美術館・個人所蔵による油彩
画90点、水彩画37点が出品される。(巡回:愛知県文化会館美術
館・BSN新潟美術館)
最初のオリジナル石版画集『パリの顔』を、ギャルリーためなが(パ
リ)から出版する。
1972年 勲三等旭日章に叙される。
国際画家としての業績と日仏文化交流への貢献に対して第25回中日
文化賞を受賞。
「画集OGUISS」が毎日新聞社から刊行される。
ペトリデス画廊(パリ)で「ヴェネツィア展」を開催、47点を出品
する。
1974年 パリ市から、メダイユ・ド・ヴェルメイユを授与される。
1975年 松坂屋(名古屋)で個展「パリの心を描く荻須高徳新作展」を開催し、
50点を出品する。
1976年 オリジナル石版画集『パリ五景』がギャルリーためながから出版され
る。
1977年 サロン・ナショナル・デ・ボザール会員に推挙され、以後毎回出品す
る。
1978年 シャトー・ド・バガテル(パリ)で「荻須高徳パリ在住50年記念回
顧展」がパリ市主催で開催され、57点が出品される。
ギャルリー・ヴィジオン・ヌーヴェル(パリ)で「オギス 版画と水
彩展」が開催され、水彩、デッサン40点、リトグラフ70点を出品。
同時にオリジナル石版画集『パリの魂』『パリの散策』が同画廊から
出版される。
ひろしま美術館に≪パリ≫が収蔵される。
1979年 サロン・デ・ザンデパンダンの特別陳列「狂乱の時代の名品」に19
28年制作の≪広告塔≫が選ばれる。
日本赤十字社に≪僧院の回廊≫が収蔵される。
前年のシャトー・ド・バガテル(パリ)で開催の回顧展を「パリを描
いて50年 ---荻須高徳展」として、毎日新聞社主催で日本橋三
越にて開催する。(巡回:大阪三越・仙台三越・中日新聞社主催 名
古屋オリエンタル中村)
1980年 神奈川県立近代美術館(鎌倉)≪ル・ペック≫が収蔵される。
サン・ドニ美術館に≪青い店(靴屋)≫が収蔵される。
稲沢市名誉市民に推挙される。
1981年 フランス国立造幣局が荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユの発行を
決定、彫刻家ルネ・コラマリーニに制作を依頼する(発行は翌年)。
講談社から『画集荻須高徳』が刊行される。
ニースのフランコニー社から、リトグラフのカタログ・レゾネ『オギ
ス・リトグラフ』(初版)が出版される。
朝日新聞社主催の「現代洋画家デッサン・シリーズ -荻須高徳展」
が銀座松屋で開催される。(巡回:大阪大丸・神戸大丸・博多大丸・
仙台藤崎)
文化功労者に顕彰される。
1982年 朝日新聞社から『荻須高徳素描集』が出版される。
『オギス・リトグラフ』出版を機に全版画展を開催。(巡回:パリ・
ギャルリーためなが、千葉・パルコ、大阪・ナビオギャラリー、東京・
ギャラリーミキモト、名古屋・国際サロン、岐阜・パルコ)
三重県立美術館に≪アンジュ河岸≫が収蔵される。
フランコニー社より『オギス・リトグラフ』(カタログ・レゾネ)第2
版が出版される。
1983年 生地の愛知県稲沢市に稲沢市荻須記念美術館開館
1984年 サロン・デ・ザンデパンダン創設100周年記念展に招待出品する。
<アトリエ3>工房にタピスリー制作のため、しばしば通う。
1985年 ギャラリー・ミキモト(東京)で「荻須高徳タピスリー展」を開催。
(巡回:松坂屋・名古屋、三越・大阪、天満屋・岡山)
1986年 サン・ドニ市立美術館で「荻須高徳 サン・ドニ風景展」を開催。55
点出品
山形美術館で油絵とリトグラフの個展開催
パリのアトリエにて死去。モンマルトル墓地に埋葬される。
文化勲章を叙勲される。