朝井閑右衛門 Kanemon Asai  
   
1901年(明34)  大阪市南区に、父 朝井繁熊、母 ヒサの長男として生まれる。 
1913年(大2)   恵美第一尋常高等小学校尋常科を卒業。 
1920年(大9)   広島市に於いて、父の死去(享年44)に伴い家督を相続。この前後
           から家には寄り付かず、交流していた陶芸家 河野公平と後に上京、
           東京府北豊島郡日暮里町(現在の荒川区)の叔父方、木村家に寄寓し
           て本郷洋画研究所に学び、この頃から友人の間を転々とする流浪の
           生活となる。 
1925年(大14)  この頃、西宮市の清水保雄に半年ほど逗留した後再び上京し、東京
           市下谷区集明館の二階を借り、アトリエにあてる。 
1926年(大15)  9月、第13回二科に『廃園に於いて』が初入選。この時、二科の
              出品票は、東京府豊多摩郡。 
1928年(昭3)   この頃、神奈川県足柄下郡桃源寺の借家に住み、また早川沿いの山
           麓に貸別荘を借りアトリエに当て制作する。ここで牧野信一、川崎
           長太郎、福田正夫、牧雅雄等を知る。 
1930年(昭5)   9月、第17回二科展に『少女K』が入選。 
1932年(昭7)   この頃、平岡権八郎の知遇を受け同家のアトリエに寄宿するように
           なる。 
1934年(昭9)   2月、第21回光風会展に『素描する人』が入選。 
          10月、第15回帝展に『目刺のある静物』が入選。 
1935年(昭10)  2月、第22回光風会展に『若き弁護士の像』が入選。 
          10月、第二部会第1回展覧会に『考古学者と其家族』が文化賞特選
1936年(昭11)  4月、第23回光風会展に『画家像』『ロリルの踊り』が入選し、光
              風会会友となる。この頃、板橋区の通称“練馬のアトリエ村”に
              住むようになる。 
          10月、昭和11年文展・鑑査展に、500号の大作『丘の上』が入選
              し、文部大臣賞。 
1937年(昭12)  2月、第24回光風会展に『ナルシース』『ギタリスト』『星を高ふ
              ピエロ』を出品し、光風会会員となる。光風会展目録の住所 
              は、再び下谷区谷中真砂(島)町1-2集明館内。
          10月、第1回新文展に『通州の救援』が入選。 
1938年(昭13)  2月、第25回光風会展に『放浪者』『五月のエスキース』『唄う人
              』を出品(評議員)。同展出品目録の住所は板橋区。 
           5月、上海軍報道部の委嘱により上海戦線記念絵画(戦争記録画)を
              制作のため、中村研一、小磯良平、江藤純平、柏原覚太郎、
              南政善、向井潤吉、鈴木英二郎、脇田和、長坂春雄等と上海
              赴く。 
          10月、第2回文展に『生還特務隊』が入選。
              この年、日本大学芸術科の講師となる。 
1939年(昭14)  7月、第1回聖戦美術展に『楊家宅望楼上の松井最高指揮官』を出
              品(招待・無鑑査)。
           10月、第3回文展に『良民救助』が入選。 
1940年(昭15)  この年、大河内信敬、南善政と中国へ赴く。
           10月、紀元2600年奉祝美術展に『黎明へ』を出品。 
1941年(昭16)  2月、第28回光風会展の審査員となるが同展は不出品。この年、
              永富花子(31歳)と結婚し、東京市大森区にあった永富家に大
              アトリエを構える。しかし、このアトリエはやがて戦時の強制
              疎開により取り毀しとなる。 
1942年(昭17)  6月1日、長女祐子が生まれる。 
1943年(昭18)  10月、第6回文展(東京都美術館)に『春』(招待無鑑査・現在
           京都市美術館蔵)を出品。
           この年、上海に赴き、歯科医 横田東一宅に寄宿する。 
1944年(昭19)  5月13日、二女 三喜が生まれる。
           11月に『豊取(誉ノ家族)』を出品。 
1945年(昭20)  この年春、上海に赴きブロードウェイマンション714号室に住む。
           ここで敗戦を迎へ、翌年の引揚げまでの間を施高塔路大陸新邨に帯
           在する。 
1946年(昭21)  この年春、上海から引揚げ、しばらくの間引揚げ寮に滞在した後、
           友人の間を転々とするようになるが、この頃、咽喉の疾患により
           横須賀の副島医院に入院し、手術回復後もしばらくの間は同院長の
           副島昇宅に滞在する。
           また、秋から翌年春にかけて静岡県三島の杉本英一宅に逗留。 
1947年(昭22)  この年、横須賀に二軒長屋を求め、1軒をアトリエに改造して1人
           で住むようになる。 
           2月、第33回光風会の審査員となるが同展は不出品。
           3月、井出宜通、川端実、須田剋太等と「新樹会」を結成。 
           5月、新憲法実施並に東京都美術館開館20周年記念・現代美術綜合
              展に『小港』を出品。 
           6月、第1回新樹会油絵展に『雨の日』など9点を出品。
          10月、第3回日展に『灯ともし頃』を出品(招待)。  
              この年、文芸雑誌「文體」第1号に掲載の高見順著「わが胸の
              底のここには」に挿絵を描く。 
1948年(昭23)  3月、第34回光風会展に『水車』『港』を出品(審査員)。
           5月、第2回美術団体連合展に『古呉の景』を出品。 
           7月、第2回新樹会展に『ばら』『ガラス台鉢』などを出品。 
              この年、「文體」第2号の高見順著「わが胸の底のここには」
              続稿と、同誌第3号の北原武夫著「背徳者」続編3に挿絵を
              描く。 
1949年(昭24)  5月、第3回美術団体連合展に『静物』を出品。 
           7月、第3回新樹会展に『秋画室』などを出品。 
1950年(昭25)  5月、第4回美術団体連合展『新開地』を出品。 
           7月、第4回新樹会展に『電線風景(A)』『電線風景(B)』『静物』
              を出品。
           この年、第6回日展の審査員となるが出品せず、また光風会会員名簿
           から、この年かぎりで消えている。 
1951年(昭26)  1月、第2回選抜習作美術展に『新開地』(連合展)が選抜される。
           8月、第5回新樹会展に『電線風景(A),(B),(C)』『ガラス台鉢』
              『街頭』『プラットホーム』『マーケット横』を出品する。 
1952年(昭27)  5月、第1回日本国際美術展に『マジョリカ台鉢』『やけ跡』『シャ
              ンパンとブロンズとテラコッタ』を出品。 
           7月、第6新樹会展に『シャンパン瓶』『ガラス台鉢(A),(B』
              『電線風景(A),(B),(ガード),(トンネル)』を出品。 
1953年(昭28)  5月、第2回日本国際美術展に『ガラス鉢』を出品。 
           8月、第7回新樹会展に『電線風景』『ガラス台鉢』『ガラス台鉢
              とテラコッタ』『蓬莱(A),(B),(C),(D)』の7点と『ガラ
              ス台鉢とテラコッタ(エスキース)』を3点出品。 
1954年(昭29)  5月、第1回現代日本美術展に『ドン・キホーテの没落』を出品。 
           8月、第8回新樹会展に『人形使いの肖像』『ばら(A),(B),(C)
              (D)』を出品。 
1955年(昭30)  5月、第3回日本国際美術展に『奇しきヘロデ王の怒りとサロメ』の
              三部作を出品。 
           8月、第9回新樹会展に『ガラス台鉢(A),(B)』『ドン・キホーテ
              の没落』『ばら(A),(B),(C),(D)』『スカパンとクリスパ
              ン』を出品。
           この年から、昭和32年にかけて、東京都中央区鈴木医院の新築別棟
           (鈴木良純方)の2階をアトリエに提供されて制作する。なお田浦のア
           トリエには気の向くまま時々帰っていた。 
1956年(昭31)  5月、第2回現代日本美術展に『ドン・キホーテ』を出品。 
           8月、第10回新樹会展に『道化(恋)A』『道化(恋)B』『ばら
              (A),(B),(C)』『港(嵐)』『港(帰らぬ船)』を出品。 
           この年、「文芸」1月号、「文学界」3月号、「雲母」5月号、9月
           号、10月号などの表紙を描く。 
1957年(昭32)  1月、第8回選抜秀作美術展に『道化(恋)B』(新樹会)が選抜される
           5月、第4回日本国際美術展に『道化』を出品。 
           7月、第11回新樹会展に『ばら(A),(B),(C),(D),(E)』、
              『仁王(紅葉)』、『道化』『ガラス鉢と人形』を出品。 
           この年、「週刊新潮」に掲載の高見順著「愛と死」「春本考」「生と
           性」「エロスの招宴」と、「文芸」2月号の「春の随筆全集」などに
           挿絵を描く。  
1958年(昭33)  1月、第9回選抜秀作美術展に『ばら』(新樹会)が選抜される。 
           5月、第3回現代日本美術展に『バラの図』を出品。 
           8月、第12回新樹会展に『新秋』『道化』などを出品。 
           この年、中山恒明著「随筆集・学園の骨片」の表紙、扉の装訂をする
1959年(昭34)  5月、第5回日本国際美術展に『紅葉水車』を出品。 
           8月、第13回新樹会展に『バラ』『ガラス台鉢』『花束』『ファル
              ス(A)』(現在神館蔵)『ファルス(B)』を出品。
           この年、「雲母」3月号の表紙を描く。 
1960年(昭35)  1月、第11回選抜秀作美術展に『ファルス(A)』(新樹会)が選抜
              される。
           5月、第4回現代日本美術展に『電線風景(A),(B)』を出品。
           8月、第14回新樹会展に『詩人山本太郎像』『詩人三好達治像』
              『詩人草野心平像』『詩人山崎栄治像』『バラ(A),(B),(C)
              』『プール』『ガラス鉢』を出品。 
1961年(昭36)  5月、第6回日本国際美術展に『廃園において』を出品。 
           8月、第15回新樹会展に『バラ(A),(B),(C),(D),(E),(F)』
              『ドン・キホーテとサンチョパンサ、シリーズ』『ドン・キホ
              -テ(坂)A』『独身主義の人魚とキューピッド、シリーズ(D)
              』を出品。 
1962年(昭37)  5月、第5回現代日本美術展に『出発』を出品。 
           この年の春、「国際形象展」が組織され、鳥海青児、海老原喜之助、
           林武、森芳雄、野口弥太郎、荻須高徳、岡鹿之助、高畠達四郎、山口
           山口薫と共に同人となる。 
           8月、第16回新樹会展に『バラ(信楽壺)』『若き萩原朔太郎』
              『バラ(夜明け前の)』『石と梅の実、室生犀星(われはうたへ
              ど)』『バラ(アイルランド壺)』を出品。 
          10月、第1回国際形象展に『ガラス台鉢のある静物』『晴来る』
              『ある逃走者』『誘惑』を出品。 
1963年(昭38)  1月、第14回選抜秀作美術展に『ある逃走者』(新樹会)が選抜
              される。 
           5月、第7回日本国際美術展に『善雲と悪雲』を出品。 
           8月、第17回新樹会展に『パン(A),(B),(C),(D)』『アトリエ
              に於ける木内克』を出品。 
          10月、第2回国際形象展(日本橋・三越)に『ドン・キホーテ』『仮面
              なしでは生きられない』を出品。 
1964年(昭39)  1月、第15回記念・選抜秀作美術展に『仮面なしでは生きられない
              』(国際形象展)が選抜される。 
           6月、第18回新樹会展に『序曲』『絵本(綱渡りの方の)』『パリス
              のさいばん』『台所(のら猫)』『仕事場(メキシコ犬のある)』
              『春(A),(B)』を出品。 
           7月、第1回太陽展(銀座・日動画廊)に『朝』『バラ』を出品。 
           9月、第3回国際形象展に『光を求めて』『夜の旅(A),(B)』『コ
              -ルネシヤ』『ロバとサンチョ』『或るドン・キホーテの像』
              を出品。
           この年、新潮現代文学14、高見順著『いやな感じ・死の淵より』の
           装画を描く。
1965年(昭40)  5月、第8回日本国際美術展に『行進曲(鬼の念仏と鼻くらべ)』を
              出品。 
           8月、第19回新樹会展に『ギター弾(A),(B)』『三人の道化』
              『サーカス人形』『黄昏』『薔薇』『犬とピエロ』を出品。
           9月下旬から10月初旬まで横須賀国立病院に、10月初旬から11
           月下旬には東京の厚生年金病院に入院する。 
          10月、第4回国際形象展に『ピエロ』『ピエロの行進(ミラノの参加
              せる)』『高く大きく』『ピエロの行進A(アンダルシヤ)』
              『ピアノの行進B(アンダルシア)』『ついにスーザホルンを
              持ち出した彼ら』『最後の病床における高見順』『追憶の高見
              順』を出品。 
1966年(昭41)  7月、第3回太陽展に『朝・逗子鐙摺ヨットハーバー(A),(B)』
              『花』を出品。 
           8月、第20回新樹会展に『栄誉人間と人形(A),(B)』『中山教授
              の像』『バラ』を出品。 
           9月、高見順展(新宿伊勢丹、日本近代文学館・毎日新聞社主催)に
              『最後の病床における高見順』『追憶の高見順』を出品。 
          10月、第5回国際形象展に『偉そうな服を着た道化(A),(B)』『逃
              げる道化』『頑固なろばと道化』『ろばと道化(A),(B),(C)
              』『二人の道化(A),(B),(C),(D)』の11点を出品。 
           この年、20年に亙って住んだ”田浦のアトリエ”を引き払い、鎌倉市
           に土地家屋を求めて転居する。この家屋は興の趣くまま徐々に改築を
           重ね、昭和50年にアトリエはほぼ完成する。 
1967年(昭42)  3月、朝井閑右衛門自選近代油絵十題展(大阪・大丸)に『バラ(マイ
              セン壺)』他14点を出品。 
           5月、第9回日本国際美術展に『道化の埋葬』を出品。 
           7月、第4回太陽展に『白雪姫(1),(2),(3),(4),(5),(6),
              (7),(8),(9),(10)』『キューピッド』を出品。 
          11月、第6回国際形象展に『ばら』『小鳥と遊ぶピエロ』『上陸』
              『口笛のロベルト』『当方への旅』『町廻り』『宵月(A)(B)
              』『春(A),(B)』を出品。 
1968年(昭43)  4月、長年に亙って別居を続けていた妻花子と協議離婚をする。 
           5月、5日間ほど東京女子医大消化器センターへ入院する。 
           7月、第5回太陽展に『水泳競技事始(大正12年芝公園)』『ばら』
              を出品。 
           8月、第22回新樹会展に『遠い旅(A),(B),(C),(D),(E)』
              『サーカスに来たドン・キホーテ(A),(B)』『打合せ』
              『大虎を逃がすな』を出品。
          10月、第7回国際形象展に『記念像制作(創世記)』『サーカス(A),(B),(C),(D),(E),(F),
              (G),(H)』『夕月(A),(B),(C),(D),(E)』 
          11月19日、戸籍氏名の「浅井實」を雅号の「朝井閑右衛門」に変更する。 
1969年(昭44)  7月、第6回太陽展に『バラ』を出品。 
           8月、第23回新樹会展に『ドン・キホーテ(A),(B),(C),(D),(E),(F),(G),(H),(I)
              (J),(K),(L),(M)』の13点を出品。 
          10月、第8回国際形象展『シラノ・ド・ベルジュラック(A),(B),(C)』『独身主義の人魚(A)(エ
              ロスに狙われる),(B),(C)』『人形図(A),(B),(C)』を出品。 
1970年(昭45)  7月、第7回太陽展に『東方への道』を出品。 
           8月、第24回新樹会展に『祭礼サーカス(1),(2),(3),(4),(5),(6),(7)』『ハナズナマッ
              ク(1),(2)』『祭礼花祭』を出品。 
          10月、第9回国際形象展に『旅へ行く人(A),(B)』『春』『偉大なる慈悲の物象』『春』を出品。
1971年(昭46)  7月、第8回太陽展に『ドン・キホーテ』を出品。 
           8月、第25回新樹会展に『海辺の子供(A),(B),(C),(D),(E)』『バラ(紅ギヤマン瓶)』
              『薔薇之図(法華手楽人文壺)』を出品。 
           9月中旬から10月初旬にかけ神奈川県の湯河原胃腸病院に入院する。
           9月、第10回国際形象展に『海辺の遊び』を出品。 
1972年(昭47)  2月、「戦後日本美術の展開-具象表現の変貌」展(東京国立近代美術館)に『仮面なしでは生きられ
              ない』(1963)が出品される。 
           6月、第9回太陽展に『ロミオとジュリエット』を出品。 
           8月、第26回新樹会展に『練習』『悪霊と道化』『道化への道』『砂糖壷のある静物』を出品。 
           9月、第11回国際形象展に『道化家族』『フラッテリー三兄弟』『3人の道化』を出品。 
1973年(昭48)  7月、第10回太陽展に『森の奥』を出品。 
           8月、第27回新樹会展に『作品(A),(B),(C),(D),(E),(F)』『ガラス台鉢』『奇蹟(甦る行路
              病者)』と他に『夕月』10点を出品。 
1974年(昭49)  6月、第11回太陽展に『雪の上の祭り』を出品。 
           8月、第28回新樹会展に『バラ(明法華壺)』『フリュートを吹く菊盛者』『フラッテリー二』『高
              僧絵ノ内(A),(B)』を出品。 
1975年(昭50)  6月、第12回太陽展に『海辺の部屋(ハヤマ)』(現在ひろしま美術館蔵)『宵月』を出品。 
           8月、第29回新樹会展に『デモンストレーション(A),(B)』『人形(A),(B),(C),(D),(E),
              (F)』『バラ(法華手壺)』を出品。 
           9月、第14回国際形象展に『ファンタジア(C),(R)』『ファンタジア(七福神の内)』『鶴亀』
              『とら』を出品。 
1976年(昭51)  4月初旬から同中旬にかけて鎌倉市稲村ガ崎の恵風園胃腸病院に入院する。 
           6月、第13回太陽展に『フランス人形』を出品。 
           8月、第30回新樹会展(最終回)に『バラ』『絵本のある静物』『ガラス台鉢(1),(2),(3),(4),
              (5)』『遁走者』『FOUの像(ある生活の記録)』『ばら』『フランス人形』『薔薇(法華手楽
              壺)』『電線風景(1),(2)』『大いなる慈哀者のけい争』の15点と、旧作の”詩人の像シリー
              ズ”から『草野心平像』『山本太郎像』『三好達治像』『萩原朔太郎像』『晩年の室生犀星』
              『病苦より天上へ高見順像』、また”学者の像シリーズ”から『ヨットの上の中山恒明教授』と
              新作の『脇村義太郎先生の像』の計23点を出品。
           昭和22年から続いた「新樹会」は、この年をもって解散する。 
           9月、第15回国際形象展に『ピカソ人形の居る静物』『バラ(法華壺)』『バラ』を出品。
1977年(昭52)  6月、第14回太陽展に『誘惑』を出品。 
           9月、第16回国際形象展に『祭(1)』『祭(2・おきつね)』『祭(3・鶴岡)』の3部作を出品。 
1978年(昭53)  6月、第15回太陽展に『薔薇』を出品。 
           この年9月、自宅の風呂場で転倒しその際右脚を捻挫する。右脚は一時回復したものの再び転倒して
           痛め、その後は歩行に支障をきたすようになる。 
1979年(昭54)  4月、日本秀作美術展に『牡丹』(第10回潮音会)が出品される。 
           6月、第16回太陽展に『薔薇(法華壺)』を出品。 
1980年(昭55)  6月、第17回太陽展に『薔薇図』を出品。 
           9月、第19回国際形象展に『バラ』を出品。
           この年、神奈川県立近代美術館の運営委員を委嘱される。 
1981年(昭56)  6月、第18回太陽展に『薔薇』を出品。 
          10月、第20回国際形象展に『薔薇之図』『薔薇』『薔薇』を出品。 
           この年、草野心平詩集「第百階級」限定19部の表紙肉筆19葉を描く。 
1982年(昭57)  6月、第19回太陽展に『バラ』を出品。 
           この年、小品の加筆程度で、制作は殆ど行わず「病苦百八十七日
           ・気分快適と言う日無し」であったと言う。
1983年(昭58)  2月末、死の予感を訴える。狭心症の発作は頻度を増すが、3月
           末から『薔薇』10号の加筆に取り掛り、10回余りで仕上げ、
           絶筆(第20回太陽展出品)となる。翌4月19日、稲村ガ崎、
           恵風園胃腸病院に入院する。4月23日午後7時35分死去する。
           遺言により葬儀は行わず、6月10日、鎌倉の極楽寺に埋葬される。