ルノワール Pierre・Auguste・Renoir
1841年 フランス中西部の町リモージュに生まれ、仕立屋の父とお針子の母に育てられる。
1854年(13才) 磁器の絵付け職人の見習いになる。この頃から、暇を見つけてはルーブル美術館に通いルーベンスやフラゴナールの名画の模写をした。
1858年(17才) 産業化の影響による絵付けの仕事の減少を受け失業する。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた。
1860年(19才) ルーヴル美術館で模写する許可を受ける。許可証は1864年まで毎年更新されている。
1861年(20才) 画家の道へ進むことを決意し、パリのシャルル・グレールの画塾に入ったルノワールは、モネやシスレー、バジールらと出会い、印象派
の活動に参加する。フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしている(1960年代初頭・画塾時代)
グレールがルノワールに帝室図書館の版画部で模写する許可を取ってくれる。
1862年(21才) 4月、エコール・デ・ボザールに入学。
10月1日~12月31日、徴兵される。
モネ、シスレー、バジールがグレールの画塾に侵入登録する。
1864年(23才) 1月5日~3月5日、2回目の兵役。
1870年(29才) 8月26日、普仏戦争にて第10騎兵隊に動員される。
11月28日、戦闘で親友バジールが死ぬ。
1874年(33才) モネ、シスレーらと共に第1回印象派展を開催。
1877年(36才) 第3回印象派展に≪ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会≫を出品。
1879年(38才) セザンヌ、シスレーと同じく第4回印象派展に参加せず。
サロン・ド・パリに≪シャルパンティエ夫人とその子供たち≫を出品し、大変な高評価を受ける。これを機に人気作家となりはじめる。
のちに妻となるアリーヌ・シャリゴと出会う。
1881年(40才) イタリアを旅行し、ラファエロのフレスコ画とポンペイの壁画に感銘を受ける。
1885年(44才) 3月21日、アリーヌとの間に長男ピエールが生まれる。
1888年(47才) リュウマチ性関節炎を患い、以後発作に苦しむ。
1890年(49才) アリーヌと正式に結婚。
レジオン・ド・ヌール勲章の授与を辞退する。
1894年(53才) 8月、アリーヌの従妹ガブリエル・ルナールが家政婦として雇われ、
以後20年の間ルノワール家と共に暮らす。
9月15日、次男ジャンが生まれる。
1901年(60才) 8月4日、三男クロード(通称ココ)が生まれる。
1904年(63才) 暮れから1905年初頭にかけ、ヴォラールのために石版画12点
を仕上げる。
1907年(66才) シャルパンティエ・コレクションの競売で≪シャルパンティエ夫人とその子供たち≫がメトロポリタン美術館に購入される。
南仏カーニュ=シュルメールに広大な土地レ・コレットを購入して、翌年まで家を建てる。
名誉総裁であったが、サロン・ドートンヌに出品せず。
1911年(70才) 10月、レジオン・ド・ヌール四等勲章を受章する。
11月、レジオン・ド・ヌール五等勲章を受章したシニャック
に自分の記章を贈る。
1914年(73才) 8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告。ピエールとジャンが徴兵される。
10月、二人の息子が負傷する。
1915年(74才) 4月、前線復帰したジャンが足に重傷を負う。
6月27日、妻アリーヌ、56才で死去。エソワの墓地に埋葬される。
1919年(78才) レジオン・ド・ヌール三等勲章を受章する。
芸術文化局長ポール・レオンの招きで、展示されている
≪シャルパンティエ夫人≫をみるためにルーヴルを訪れる。
12月3日、肺充血によりレ・コレットで死去する。
エソワの墓地にアリーヌと並んで埋葬される。