レオナール・フジタ(藤田嗣治) Leonard・Foujita
1886年 11月27日東京牛込にて藤田嗣治誕生。当時陸軍一等軍医(後に軍医総監)であった父 嗣章(つぐあきら)と母 政(まさ)。
二人の姉(きく、やす)と兄(継雄)がいた。
1905年(19才) 4月、東京美術学校(現東京藝大美術学部)予備科に入学。9月、東京美術学校西洋画科本科に入学。西洋画科主任は黒田清輝。
1910年(24才) 東京美術学校西洋画科卒業。朝鮮に旅行する。
1912年(26才) 女子美術学校家政科出身の鴇田登美子と結婚し、自宅近くに彼女と共同のアトリエを持つ。
1913年(27才) 父と3年の約束で単身フランス留学。三島丸での1カ月半の航海の後、5月にマルセイユに到着。
1915年(29才) シテ・ファルギエールのアトリエに定住。隣人にはスーチン、モディリアーニがいた。
父に手紙を書き、フランスに残る強い意志を伝え、登美子との離婚の許可を求める。
1917年(31才) フェルナンド・バレーと結婚。バレーのアトリエ付きの家に住む。
シェロン画廊と7年契約を結ぶ。
1919年(33才) サロン・ドートンヌの年度会員に推挙される。
1920年(34才) 乳白色のマチエール”Grands fonds blancs(すばらしい白地)”のはじまり。
サロン・ドートンヌの会員に推挙される。
1921年(35才) サロン・ドートンヌの審査員に推挙される。
1924年(38才) フェルナンド・バレーと離婚。ユキと結婚(本名リュシー・バドゥ)。
第5回帝展委員になる。
1925年(39才) レジオン・ド・ヌール五等勲章(シュヴァリエ)をフランスから、レオポルド一世勲章をベルギーから贈られる。
1926年(40才) 【友情】(1924)がフランス国家買上げになり、リュクサンブール美術館に収蔵される。
1927年(41才) ルーヴル美術館が彼の版画集の為の銅版画を買い上げる。
1928年(42才) 税金滞納を解消する為に東京での大規模な個展開催を計画。
1929年(43才) ユキを伴いナポリ、ポートサイド、コロンボ、シンガポール、香港を経由して、17年ぶりに日本に帰国。
東京の二会場で盛大な個展を開催し大成功を収める。
1930年(44才) ホノルル・合衆国経由でフランスに戻る。
ロベール・デスノス、ユキ、甥のトモを伴いブルゴーニュを旅行する。
ニューヨークに3カ月滞在し、その後シカゴに1カ月間滞在する。
1931年(45才) ロベール・デスノスに愛情を抱くユキと別れ、マドレーヌ・ルクーを伴いブラジルに旅立つ。 4カ月の滞在の間に開催した個展はこと
ごとく高評価を得る。
1932年(46才) 2年に渡り南米[アルゼンチン、ボリビア、ペルー、キューバ、メキシコ(7カ月滞在)]を旅し、個展を開く。
1933年(47才) アメリカに滞在。マドレーヌを伴い横浜に到着。
1934年(48才) 銀座聖書館内のブラジル珈琲陳列所に壁画を制作。
中国旅行(北京)。
東京の義弟宅の庭にメキシコ風のアトリエを建てる。
マドレーヌ、突然フランスに帰国。堀内君代と知り合う。
1935年(49才) マドレーヌが再来日し、東京に家を借りる。
大阪の十合百貨店に壁画を制作。 東京の喫茶店コロンバンに天井画を制作。京都の関西日仏会館に壁画を制作。
1936年(50才) 6月、マドレーヌ死去。東京に純日本風の住宅を新築(1937年完成)。12月、後に妻となる堀内君代と生活を始める。
1937年(51才) 秋田の平野政吉氏のために大壁画を174時間で制作。中国旅行(北京)。
【自画像】(1928年)がパリの近代美術館に買い上げられる。
1938年(52才) 5月、沖縄に旅行する。海軍省嘱託画家として中国に派遣される。
9月、堀内君代と入籍する。
1939年(53才) 君代夫人とフランスに戻る決心をする。5月、パリ到着。モンマルトルのオルドネ街に落ち着く。
1940年(54才) 5月、戦火のフランスを脱出し再び日本に帰国。陸軍省嘱託画家として中国の戦線に赴く。
1941年(55才) 父死去(88才)。二科会会員を辞退。帝国芸術院会員となる。
文化使節として仏領インドシナに派遣される。
1942年(56才) 戦争画を海軍省及び陸軍省に献納。東南アジア、シンガポールに派遣される。
1943年(57才) 【シンガポール最後の日】に対し朝日新聞社より朝日文化賞を贈られる。
1945年(59才) 4月13日、東京の自宅が空襲により破壊される。
8月、疎開先の神奈川県相模湖近くの小村で終戦を迎える。
1946年(60才) 2月、東京に新居を購入。フランク・シャーマン(アメリカ軍司令部の出版担当官)の訪問を受ける。
1949年(63才) 3月10日、ニューヨークのブルックリン美術学校の教授として招聘され、日本を発つ。
5月に君代夫人もニューヨークに到着。いくつかの画廊にて個展を開催し好評を博す。
1950年(64才) 1月初め、フランス入国許可がおりる。イギリス経由の10日間の航海の後、2月4日ル・アーヴルに到着。翌日、パリの新聞記者団の
インタヴューを受ける。
1951年(65才) アルジェリアを訪れ数都市で展覧会を開き成功を収める。
スペイン美術協会主催の大規模な個展がマドリードで開催され、同地を訪れる。大成功を収める。
パリの国立近代美術館に4作品を寄贈。【私の部屋、目覚まし時計のある静物】【私の部屋、アコーデオンのある静物】【カフェ】
【フレール河岸、ノートル=ダム・ド・パリ】
1952年(66才) ポール・ペトリデス画廊にて第2回目の個展を開催する。
1954年(68才) ユキとの法的な離婚が成立する。
パリ14区の市役所で、堀内君代と結婚の手続きをする。
ポール・ペトリデス画廊で第3回目の個展を開く。
君代とパリの区役所で入籍手続きをとる。
1955年(69才) 君代と共にフランス国籍を取得し日本国籍を抹消する。正式にパリ市民となる。
日本芸術院会員を辞任する。
1957年(71才) レジオン・ドヌール四等勲章(オフィシエ)受賞
1958年(72才) ポール・ペトリデス画廊で個展を開催する。
ベルギー王立アカデミー会員となる。
1959年(73才) ランスの大聖堂で君代と共にカトリックの洗礼を受ける。洗礼名「レオナール」
同日、【聖母子】を同聖堂に奉納する。
1960年(74才) 君代と共にローマ教皇ヨハネス23世に謁見する。
ポール・ペトリデス画廊にて第6回目の個展を開催。キリスト教主題の大作【キリスト降架】【聖母子】などを発表する。
1961年(75才) ポール・ペトリデス画廊にて、水彩と木版画の個展を開催する。
パリ郊外のヴィリエ=ル=バクルに転居。農家を改装してアトリエ兼住居とした。
1964年(78才) ポール・ペトリデス画廊にて個展を開催。
1965年(79才) ランスに礼拝堂を建立する計画に着手する。
1966年(80才) 6月 ランスのノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂(通称シャペル・フジタ)のフレスコ画制作にとりかかり、8月31日に完成
させる。
パリの病院に入院・手術を受ける。
1967年(81才) スイスのチューリヒ州立病院に入院する。
1968年 1月29日 チューリヒ州立病院にて死去する。
2月3日 ランス大聖堂で葬儀がおこなわれる。
遺体はランスのノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬され、2003年に最晩年を過ごしたヴィリエ=ル=バクルの教会墓地に移さ
れた。