ユトリロ Maurice Utrillo
1883年 12月26日 パリ・モンマルトルの丘の麓のポトー街に生まれる。
母はモデルで才色兼備の女流画家のシュザンヌ・ヴァラドン。母親は
ルノワール、ドガ、ロートレックのモデルになっているうちに自ら絵
筆をとり、頭角をあらわした。父親は不明。
1885年 2歳の頃、癲癇の発作に見舞われ、後遺症が残る。
1891年 スペイン人の美術評論家ミゲル・ユトリロ・イ・モルリウスが私生児
だった彼に同情し認知する。以後、モーリス・ユトリロの性を名乗る。
1896年 パリのロラン中学校に入学。すでに飲酒癖があった。
1900年 早くから異常な飲酒癖を示し、17歳で最初のアルコール中毒で入院
をするようになった。
1901年 モンマニ―とピエールフィットに近いサルセルに転居。引っ越した後も
アルコール依存が悪化し、治療のためにユトリロに絵筆を取らせる。
1902年 モンマルトルの丘の上にあるコルトー街に住み着く。この頃から水彩
画を描く練習を始めた。一家でモンマニーに滞在した際に最初の風景
画を制作した。しかしアルコール依存症は酷く、精神は蝕まれていった。
《モンマニ―の時代》 1904~1908
1904年 パリのサン=タンヌ精神病院に入院。退院後、それを治すために医師
の助言と母の説得で治療のためモンマニ―周辺のモンマルトルで本格的
に絵を描き始め、優れた天性を発揮する。
1905年 モンマニ―とパリのセーヌ河岸の風景を多く描く。
1909年 サロン・ドートンヌに出品。これがユトリロの作品が世に出た初めての
展覧会であった。翌年モーリスの画商となるルイ・リボートが最初の買
い手として現れる。
《白の時代》 1910~1914
1910年 カッペルレ兄弟とポール・ガリマール(印象派絵画収集家)がユトリロの
作品を複数買う。
1911年 セザール・ゲイと知り合う。ゲイの経営する飲食店の奥で絵を描き、完
成した作品をカフェのホールに掛けるとそれが好評を博し、芸術家とし
てモンマルトル一帯に認知されるようになった。
1912年 リボードはユトリロの絵画の価値が急上昇したため、専属契約を交わす。
サノワのルヴェルテガ博士の病院に入院する。この後、入退院を繰り返
しながらも作品を描き続ける。
1913年 ユトリロの作品をほぼ独占したリボードは、ウジェーヌ・ブロ画廊でユ
トリロ最初の個展を開催する。
画商のマルセイユと専属契約を結ぶ。
1914年 ホテル・ドゥルオーでの競売会(熊の皮)で、ユトリロの作品が初めて高
値で売れる。
この頃《白の時代》の絶頂を迎える。そして精神病院への入退院も繰り
返す。
1917年 ベルナイム・ジュヌの画廊で開かれたグループ展に数枚出品する。ドル
ーがリボードに代わりユトリロの画商の筆頭となる。
1919年 ユトリロの重要な作品による展覧会がパリのルプートル画廊で開催され
る。
《色彩の時代》 1920~1955
1921年 ギャルリー・ヴェルト・ヴェイユにて個展を開催。ド
1923年 母との二人展や個展を開催。
1925年 セルゲイ・ディアギレフのロシア・バレエ団のために舞台装飾を担当する。
1928年 レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章と教育功労勲章を授与される。
1935年 ベルギーの資産家の未亡人で、コレクターでもあった12歳年上のリュシー
・ヴァロールと結婚し、晩年は裕福な生活を送りながら絵葉書をもとにパリ
の風景を描き続けた。
1938年 母、シュザンヌ・ヴァラドン死去。
1948年 サロン・ドートンヌでユトリロの回顧展が開催される。
1955年 「パリ・キャピタル」のために10枚のリトグラフを制作。
パリ市から金メダルを授与される。パリ名誉市民賞受賞
静養のため南仏のダックスへ旅行中、風邪をこじらせて急逝する。
享年71歳 11月5日死去